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 郷愁と童心の詩人「野口雨情」生家・資料館の公認ウェブサイトです。雨情ニュース、年譜、代表作品、展示品リスト、施設のご案内等を掲載しています。

野口雨情について

雨情

しとしと降る春の雨の趣を、
中国の古文の中にある詞で「雲恨雨情」という。
雨は、厳も通すほどやさしい。
- 野口雨情 -
 
野口雨情(1882-1945)は、63年の生涯において、約3000編近い詩歌と約800編という多くの童謡を作りました。故郷の農、漁村生活から生まれた自然詩は、虚飾のない素朴さと美しい叙情にあふれ、貧しい人々の生活や弱者に対する限りなく温かいまなざしが内在しています。また、童謡の真髄の「童心」について、深い考察を残しています。
(野口不二子著「郷愁と童心の詩人 野口雨情伝」講談社発行より) 


年譜 

1882(明治15)年
5月29日、茨城県多賀郡磯原村(現在北茨城市磯原)に父量平・母てるの長男として生まれる。名は英吉。
 
1897(明治30)年[15歳]
上京。伯父野口勝一(衆議院議員)宅より神田の東京数学院(順天求合舎数学科)中学に通学。
 
1901(明治34)年[19歳]
東京専門学校(早稲田大学の前身)高等予科分科入学。坪内逍遥の指導を受ける。
 
1902(明治35)年[20歳]
この頃新体詩、短編小説、おとぎ話を創作。3月「小柴舟」に「流々吟」を掲載。詩壇登場。5月、学校中退 詩作発表始まる。
 
1904(明治37)年[22歳]
1月、父量平死去し帰郷。11月、高塩ひろと結婚。
 
1905(明治38)年[23歳]
3月、詩集「枯草」を自費出版。
 
1906(明治39)年[24歳]
6月、樺太に渡る。11月、上京し西大久保に住む。
 
1907(明治40)年[25歳]
1月から月刊詩集「朝花夜花」を第3集まで刊行。3月、人見東明、三木露風、相馬御風らと早稲田詩社を結び、作品を「早稲田文学」に発表。7月、北海道に渡り、北鳴新聞の記者となる。9月、石川啄木と知り合い、親交を結ぶ。
 
1908(明治41)年[26歳]
5月、北海道新聞社、9月、室蘭新聞社に勤務する。その後、胆振新報社に移る。
 
1909(明治42)年[27歳]
北海朝日新聞社勤務。11月、北海道から帰郷。ただちに上京する。
 
1911(明治44)年[29歳]
「グラヒック」の編集に携わる。9月、母てる死去。10月、郷里に帰り植林事業、山林管理に携わる。
 
1915(大正4)年[33歳]
5月、妻ひろと協議離婚。6月、2児を連れ、湯本の柏屋へ身を寄せる。
 
1918(大正7)年[36歳]
1月「いばらき新聞」の木星会の集いに横瀬夜雨、山村暮鳥らと出席。10月、単身水戸に出る。中里つると結婚。
 
1919(大正8)年[37歳]
長久保紅堂主宰の「茨城少年」の編集に携わる。童謡欄を設け、選者となり、作品を発表する。6月、詩集「都会と田園」を出版。この時期に「船頭小唄」(原題枯れすすき)を作詞し。中山晋平に作曲を依頼。「おとぎの世界」に「田甫の上」を発表。(中央児童誌への発表の最初)。11月、創刊の「金の船」に「鈴虫の鈴」を発表。
 
1920(大正9)年[38歳]
8月「金の船」編集員となり上京。毎号童謡を書く。
 
1921(大正10)年[39歳]
2月「別後」、6月「十五夜お月さん」、12月 「童謡作法問答」、長篇童話「愛の歌」を出版。童謡・民謡の普及のための旅行が増える。
 
1922(大正11)年[40歳]
3月「童謡のつくりやう」出版。11月、藤井清水、権藤円立、志賀志那人の「楽浪園」同人となる。
 
1923(大正12)年[41歳]
3月「童謡十講」、4月「沙上の夢」出版。7月「童謡教育論」、10月「童謡と児童教育」を出版。
 
1924(大正13)年[42歳]
1月「極楽とんぼ」「童謡作法講話」を出版。4月、朝鮮旅行。5月「民謡と童謡のつくりやう」、6月「青い眼の人形」、7月「雨情民謡百篇」を刊行。
 
1925(大正14)年 [43歳]
2月「のきばすずめ」出版。5月、葛原しげる、松原至大らと「日本作歌協会」を設立、「日本童謡集」の選者となる。7月「童謡と童心芸術」出版。9月「日本童謡選集」(カルピス製造会社が全国少年少女より募集)の選者となる。
 
1926(大正15)年
9月から10月にかけて満州旅行。
 
1926(昭和1年)[44歳]
6月「おさんだいしょさま」「螢の灯台」を出版。
 
1927(昭和2年)[45歳]
4月、台湾旅行。7月「童謡教本」を出版。
 
1928(昭和3年)[46歳]
1月、文部省仏教音楽会が設立され、北原白秋とともに評議員となる。4月、台湾旅行。
8月「野口雨情民謡叢書」、9月「児童文芸の使命」を出版。
 
1929(昭和4年)[47歳]
10月「波浮の港」、11月「全国民謡かるた」を出版。
 
1930(昭和5年)[48歳]
1月、小倉の文芸講演会で石川啄木を語る。
 
1931(昭和6年)[49歳]
1月、北陸タイムス社募集の「越中音頭」「富山小唄」の審査員となる。
 
1932(昭和7年)[50歳]
6月、稲垣浩監督の依頼により、 映画「旅は青空」の主題歌を作詞。
 
1934(昭和9年)[52歳]
7月、満鉄の招聘により中国へ行く。
 
1935(昭和10年)[53歳]
12月、日本民謡協会を再興。理事長となる。
 
1936(昭和11年)[54歳]
8月「草の花」を出版。
 
1937(昭和12年)
5月から7月にかけて朝鮮旅行。
 
1938(昭和13年)[56歳]
10月「札幌時代の石川啄木」を「原題」に発表。
 
1939(昭和14年)[57歳]
12月、台湾を巡歴する。
 
1940(昭和15年)[58歳]
7月、北海道巡歴。29日、札幌放送局より公演放送。8月、ふたたび北海道巡歴。
 
1941(昭和16年)[59歳]
熊本県各地を旅行。
 
1942(昭和17年)[60歳]
長崎県各方面を旅行。
 
1943(昭和18年)[61歳]
2月「朝おき雀」を出版。軽い疾患に冒される。4月、山陰地方を旅行。9月、四国地方を旅行。
 
1944(昭和19年)[62歳]
1月 戦禍を避け、宇都宮市外に疎開。病気療養に専念。
 
1945(昭和20年)
1月27日、永眠。享年63歳。


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